これで一旦、日本の民間旅客航空会社からジャンボが姿を消したことになる。(NCAの貨物専用機と政府専用機は別ね)
海外のエアラインではまだバンバン飛んでるのでそれほど惜別の想いというのはないんだけど、日系エアラインから姿を消し、そして身近な国内線で乗れなくなるというのは寂しい限り。
そこで今回は回想旅行記特別編として、私がANAとJALのジャンボで国内外を旅した際のエピソードを交えながら振り返ってみる。(ビックウェーブには乗っかってみる←)
写真が残っているのもを中心に取り上げるが、ネガやプリントをスキャンしたものなど記録画素が乏しかったりするのは時代の流れって事で。
(いちおう一般記事はですます調、回想・旅行記はである調でやってまス)
---
私が国内外の747ジャンボに乗った回数は26回以上。
「以上」としたのは、詳細な機種や機番をメモしてなかった時期もありこのような表現に。それでもジャンボの可能性がある未確認フライトは3回、最大で29回だと思う。
判明している内訳はJAL13回・ANA11回・外資系2回(AZ/CX)。
私のジャンボへの初搭乗はANAの国内線だった。
ジャンボ初搭乗
1995年6月 ANA381便 小松-札幌
私のジャンボジェットへの初搭乗がこの便だった。
夏の繁忙期に小松-札幌線がボーイング747での運航となり、その記念すべき初日のフライト。
当時旅行業界にいた我々にANAから「乗る人が少ないから乗って」という誘いへのお付き合いだった(割引はされていたけど有償…)。
札幌では折り返し運用となる往路の機体にそのまま乗って帰ってくるだけという、本当に座席を埋めるためだけの搭乗。そのため写真もナシ。チケット引き換えて売店でお土産買ってハイ保安検査場!という具合だった。そしてこれが私にとって北海道初旅行だった。
現在はエアドゥが運航しているこの路線、以前はANAによって運航されていた。東京便が小松に到着後、その機材が札幌に向かっていた。
国際線ジャンボ初搭乗
1996年5月 JAL701便 関西-香港・啓徳空港
まだイギリスの植民地だった頃の香港への旅。
中国へ返還される前に一度見ておきたかったのと、あの旧・啓徳空港の滑走路13アプローチを経験してみたくて初めての香港に向かった。ただアサインされた座席がポートサイド側だったので、ファイナル時には空しか見えなかった思い出。
またこのフライトが自身初めての関西空港から搭乗した便となった。
(ちなみに復路はMD-11、通称「J Bird」。MD-11が日本の航空会社から消えるときはこんなに大騒ぎしてなかったケド)
搭乗機は747-400(JA8910) |
この頃の香港は日本人観光客が多く、店員さんも日本語が達者。街中を歩けば「ニセモノ有ルヨ!」「3ツデ1000エン!」と頻繁に日本語で声を掛けられた。
このあと何度か香港を訪れることになるが、この頃の雰囲気が最も印象に残っている。
100万ドルの夜景 |
ジャンボ最長距離搭乗
1996年12月 ANA1221便 関西-ロンドン・ヒースロー
イギリス・フランス・イタリアの3か国を旅行した際に、関西空港から搭乗したANAのジャンボ。
私の過去全ての搭乗記録においても、現時点で最長フライト(6114mile)だ。
この頃の関空は日系キャリアによる欧米線が充実していた。
搭乗機は747-200(JA8181) 隣に見える尾翼は、キャセイパシフィック航空の旧塗装機 |
当時は個人用モニターなどなかったので、前方スクリーンに投影される映画を見たり本を読んだりして長いフライトをひたすら耐えた。シベリア上空では円形の露天掘り鉱山などが見えた記憶。そしてロンドンに降り立った時はもうグッタリ。あの悪名高き(?)イミグレーションもどんなだったか記憶なし。最初の晩飯もイギリスらしいアレな飯でさらにテンションダウン。
ロンドン-パリ間は飛行機ではなくユーロスターに乗車 |
復路はミラノ-(フランクフルト経由)-関西線のジャンボ(NH1220便)に搭乗。フランクフルトでは降機することができて、出発制限エリアで買い物したのを覚えている。
ミラノからANAのジャンボに搭乗(機番不明) |
当時のヨーロッパは日本人観光客が免税店やブランドショップに押し寄せショッピングをした時代。
出国時に免税措置を受けるためにはそのお土産を手荷物として機内に持ち込む必要があったため、復路の機内はその収納スペースを確保するための争奪戦が繰り広げられていた。
ちなみに、ローマ-ミラノ間ではアリタリア航空(AZ)のジャンボにも搭乗している。残念ながらあまり記憶にはないんだけど、メインデッキの階段付近に座ってたような…?
JALのラスベガス直行便
1998年12月 JAL26便 成田-ラスベガス・マッキャラン
JALによる北米路線のひとつに、ラスベガス直行便があった。
一般的にはロサンゼルスやサンフランシスコなど西海岸の都市で乗り換えてラスベガスへ向かっていたのだが、この直行便就航によってアクセスがとてもよくなった。折り返しの便はラスベガスが高地なため成田まで燃料満タンとして飛べず、LAX経由としていた記憶がある。
成田空港第2ターミナルから搭乗機を撮る(機番不明) |
この当時は、ストリップ通り沿いに建ち並んだ巨大テーマホテル群への注目が高まり、ハネムーンなどを中心にラスベガスは人気の観光地となった。
日頃ギャンブルとは無縁の私でも、ラスベガスの夜はカジノのテーブルで時間を忘れて遊んだ。
ラスベガスの夜 |
復路は成田便が取れず、JAL69便でロサンゼルスから関空へ。搭乗機はこちらもジャンボ。
ちなみにこのとき、ラスベガス-ロサンゼルス間でハワイアン航空のDC10に搭乗。印象としてはこちらの方が強いんですが…。
LAX/トム・ブラッドレー国際線ターミナルにて。搭乗機は747-400(JA8071) 機首部分には、JALの-400に付けられた愛称“SKY CRUISER”の文字 |
空席の目立つ9.11テロ直後の北米線
2001年11月 ANA9便 成田-ロサンゼルス
2001年9月11日にアメリカで発生した世界同時多発テロ。
特に航空業界は大きな痛手を被った。
日本では飛行機にお客が乗らないという状況。特に北米向けを中心に海外旅行が全く売れなかった。
そんな中、とある卸売旅行会社から「誰も旅行に行かないの!誰か飛行機に乗って!」と誘われ、社員向けのプロモーションとして同僚とその家族で自身2度目のラスベガスへ旅行した。
成田空港第2ターミナルより搭乗機を撮る 搭乗機は747-400(JA8096) |
往路のジャンボはガラガラで搭乗率は3割にも満たないほど。後にも先にもあんなに空いているジャンボに乗ったのはこの時だけ。最後尾の中央4列席にゴロンと寝転がりながらの太平洋ロングフライトとなった。
(復路はSFO発の777だったが、こちらはさらに低い搭乗率で…)
往路はロサンゼルス経由、そこから今は無きナショナル航空(N7)に乗り継いでラスベガスへ。
ここまでの国際線とは一転、アメリカ国内線は満席。週末と重なった影響もあってか、ターミナルも多くの乗客で溢れかえっていた。
そしてラスベガスも前回訪問時よりも賑わっていた印象。テロに屈しない姿勢を表すため、街や施設の各所には大小様々な星条旗が掲げられていた。
この旅では憧れのモニュメントバレーまで足を延ばした |
ただセキュリティー検査はとても厳しく時間がかかった。さらにチェックイン時に「SSSS」と印字された搭乗券を渡される。これは「Secondary Security Screening Selection」の略で「特に入念に調べよ」との印。通常のセキュリティ検査に加え、搭乗ゲートでは我々のグループだけ身体検査が行われ、誰よりも最優先で搭乗させられた。
これは9.11後から行われだした。無作為抽出といわれていたが、航空券のPAYMENT欄がCASHな人(ツアー用航空券の場合、PAYMENT欄はCASHになる)や片道だけの予約の人など、特定の条件があったといわれている。
この後、航空保険特別料金や燃油サーチャージというしくみが登場。航空会社は効率の良い運用と、燃費のいい機材選定を行うようになっていった。
あの9.11事件がなければ、日本のジャンボの運命も少しは変わっていたかもしれない。
1日乗り放題運賃
2003年2月 ANA19便 羽田-伊丹
ANAでは過去に「1日乗り放題運賃」というのが存在した。特定日の当日限定で乗り放題とするもので価格は1万円。確か2,3度実施されたと思う。
何よりも予約を取るのが大変だった。ANA端末を使って自ら予約を取得していたが、日本中から大量の予約が集中したためかレスポンスの遅さには閉口した。
このときは大阪の友人に会いにいくため「富山-羽田-伊丹//関西-羽田-富山」と搭乗、うち羽田-伊丹便がジャンボによる運航。
既に伊丹空港にジャンボジェットが就航しなくなって久しいが、調べてみると2006年3月が伊丹への最後のジャンボ定期就航だったようだ。
搭乗機は747-400D(JA8959) |
もう見られない、伊丹空港でのジャンボの姿 |
ちなみにこの日は一部地域が雪で混乱し、日本中の1日乗り放題客が混乱に陥ったと記憶している。
日頃はあり得ないヘンテコな乗り継ぎを作るもんだから、機材繰りによるミスコネクトで振替やらホテルを貰ったりしてる客がいた。
最後に乗った富山へのB767・USJ特別塗装機 写真に写っている「とある珍景」、分かりますか? |
香港ひとり旅
2003年8月 JAL142便 小松-羽田/JAL735便 成田-香港
中国に返還された香港も見てみようと、真夏の香港に旅行した。
この旅行では計4レグに搭乗しているが、うち2レグがジャンボによるフライトだった。なかなか特典航空券が取れず、このときは往路小松発・復路富山着とした(当時JALが富山に就航)。
この旅行では計4レグに搭乗しているが、うち2レグがジャンボによるフライトだった。なかなか特典航空券が取れず、このときは往路小松発・復路富山着とした(当時JALが富山に就航)。
小松-羽田の搭乗機は747-100B(JA8164) |
まず小松-羽田では短いコブが特徴の747-100Bに搭乗。都内をぶらぶらしながら成田へ向かい、続いて夕方発の香港便に搭乗。
このころには個人シートモニターも一般的になっていて、フライト中の退屈しのぎになった。
初めて香港の新空港を利用したが、夜も遅かったので見学もせずそのまま香港島のホテルへ。
久しぶりの香港、寺院を見たり食べ歩きなどしてノンビリと4日間を過ごした。
成田-香港の搭乗機は747-400(JA8901) |
この頃にはシートモニター装備も一般的に(MAGIC2) |
とにかく暑い、8月の香港 |
復路は777で成田へ。国際航空券のルールを活用し東京で1泊、翌日は当時話題となっていた北朝鮮の不審船をお台場に見に行った。
最後のJALジャンボ搭乗
2008年12月 JAL3251便 中部-那覇/JAL3258便 那覇-中部
JALジャンボに最後に乗ったのはこの中部-那覇線。現在はJTAの737-400で運航されているこの路線も、当時はジャンボが投入されていた。
先にANA機が出発・離陸したもののいつのまにか上空で追い越し、那覇ではJAL機が先に着陸。先着するはずの友人が到着ロビーで私を出迎える予定だったが、私が友人を出迎えた。
選択高度とジャンボの巡航速度による華麗な追い越し劇だった。
往路の搭乗機は747-400D(JA8903) |
この旅では初めて宮古島とその周辺離島を周遊。そして下地島空港でタッチアンドゴー訓練を見学。
ジャンボと同じく、本日をもってANAから引退となったDHC-8-300がタッチアンドゴー訓練を行っていた。
DHC-8-300“はまなす”(JA805K)がタッチアンドゴー訓練中 この機種も、本日の運航をもってANAからの引退となった |
復路の搭乗機は747-400D(JA8099) |
“小松-羽田線”で乗った最後のジャンボ
2009年3月 ANA759便 羽田-小松
私がジャンボにもっとも多く乗った路線が「小松-羽田線」。この路線で最後の搭乗となったのがこのフライトだ。この路線ではANA/JALともにジャンボによる運航が長らく行われていた。
この時は北海道旅行から復路、羽田経由にした際に搭乗した。
北陸から北海道への旅客が落ち込む季節ということもあり、パッケージツアーで小松-札幌-羽田-小松と予約、札幌1泊と夕食まで付いてお値段26,500円だった。
搭乗機は747-400D(JA8099) |
このときは2階席の「89B」に座っている。この席は2階への階段を登ったすぐ目の前にある、ちょっと特別な雰囲気が漂う座席だが、たまたま空いていたので事前座席指定でチョイス。
元々は86Cとしてこの席を予約していたが、当日ゲートで「機材が変更になり、座席番号が変わっています」とアナウンス。この頃は機内コンフィグが2種類あったようだ。
搭乗機のシートマップ(当時) 「74P」と比べると座席数・座席番号が異なっている |
最終仕様となった「74P」のシートマップ |
最後のジャンボ搭乗
2009年12月 ANA126便 那覇-羽田
このころには「ジャンボが近い将来退役しますよ」的な情報は既にあった。昼過ぎ発の便がちょうどジャンボだったので予約、せっかくだからアッパーデッキでしょと2階席をアサイン。
ゲートに行くとお花ジャンボが駐機中。搭乗時に「まだ給油してるからシートベルト締めないで」的なアナウンスがあったと記憶している。
搭乗機は747-400D(JA8959) ポケモンジェット「お花ジャンボ」 |
やっぱり2階席をチョイス |
ジャンボから見た富士山 |
上空からは富士山の姿。
このときの機窓・機内アナウンス動画はこちら。
私にとって、これが日本のエアラインによるジャンボへの最後の搭乗となった。
ジャンボ全盛時代を多少なりとも知っている人間からすると「日本の航空輸送形態も変わったなぁ」というのが率直な感想。
ただ、今後日本の旅客航空会社が747シリーズを購入・運航する可能性が全くのゼロという訳ではないので、また再び乗れる日が来るかもしれない。
そしていまこの瞬間も、ジャンボジェットは世界中でお客を乗せて飛んでいる。
---
ブログを開設して1年が経過しました。
開設以降、予想以上にたくさんのアクセスを連日頂いています。
最初の宣言どおり相変わらずの不定期・気まぐれ更新ですが、今後ともよろしくお願いします。